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連載小説「薄明のバルドは知っている」第一回 “Tender” #さかき漣

2019.5.22アート

連載小説「薄明のバルドは知っている」第一回 “Tender”  #さかき漣

私は彼の手指が好きだった。無骨に見えて、実際は滑らかに私の肌にまとわるから。手指同様に、彼の腕も好きだった。とりわけ、日に焼けた腕についた、筋肉。皮膚組織の下でしなやかに蠢く筋のひとつひとつが私を魅了した。

深夜は超え、しかし暁はこれからの時刻。くぐもった海沿いの町に建つ家に私たちはいた。季節は厳冬だった。建屋の周囲を雪と氷とが舞っている。外気は凍えているだろうが、室内は暑く湿っていた。そして私の両腿の下には、こちらを見上げる男の顔と体。

遊戯がとめどなく繰り返されていた。ふとベッドの横に立てかけられた鏡に視線をやれば、派手に引かれていたはずの紅はすっかり輪郭を失っている。バーガンディはふたりの肌をまだらに染め、鑑賞者からすれば酷く扇情的なことだろう。

私はなにごとにも冷めやすい性格で、それはセックスについても同様だった。目の前で急速に客観性のフィルターを取り戻しつつある女に、声がかかる。

「置いてくなよ」

訴えるのは最愛の恋人だ。

「決してひとりにしないって言ったよね」

揺れ続けながら、体位を幾度となく変えながらも、恋人は変わらず二つのフレーズを口にする。まるで壊れた機械人形のように。

私は彼の質問に答えたかった。しかし不思議なことに、言葉はどうしても口から出てこないのだ。快楽に火照りすぎて息が苦しくなっているが故だろうか。それとも?

返答のないことに、彼の瞳は潤み始めた。いつしかそれは表面張力を決壊させ、頬に筋を描いていく。

ひとすじ、ふたすじ。徐々に頬は汚れていく。とうとう恋人はずっと隠してきた思いを口にするのだ。

「お願いだから。最後の日まで、僕を愛して」

彼の唇から絞り出された言葉。普段の仮面を取り去った、切ない声で。私はそれに応えたかった、しかしどうしても口は脳の命令に従わないのだ。ならば代わりの意思表示にと、私は必死で腕を伸ばそうとする。

そのとき変化は起きた。

彼の両眼から流れる涙が濁り始め、みるみる赤い液体に変わっていった。血の、川。緋色の川はうねり荒らぶって、彼の顔を不穏に装飾していくのだ。

緋色の拡大はとどまらぬまま、壁に掛けられた時計から時を告げる声が響く。ひとつ、ふたつ、みっつ。緋色、緋色、緋色。

目の前の男はもはや恋人とは見えなかった。赤黒く染まった肉塊に、眼球のみ白く浮いている。その残った白も充血に縁どられ、開いた瞳孔は明滅する。

さらに私の眼は、予想だにしなかった事象を捉えた。いつからだったのか、男女の周囲には奇妙な文様が浮かび上がっていたのだ。おそらくそれは、“魔法円”……!

……まさか私たちは、寝台ではなくマジックサークルの中心でまぐわっていたのか……?

私は顔を上げた。裸身だったはずの彼は、いつしか黒装束を着けている。そして彼の背後に、同様の黒装束をまとう人々が出現した。ひとりふたり、また一人二人。増えてく黒の群れ。そして群れの一人が音を発した。

「爾汝 先規ニ逆フカ」

見えない唇から言葉を紡ぐのだ。

「爾汝 先規ニ逆フカ」

言葉が響き合う。ひとつでは微かな声も、他の声と重なり合うことで増幅していく。

「爾汝 先規ニ逆フカ」

ゆっくりと増幅の度合いを増していく声。それとともに黒の一団は徐々に恋人に近づき、囲む。

「爾汝 先規ニ逆フカ」

「爾汝 先規ニ逆フカ」

「爾汝 先規ニ逆フカ」

事ここに至り、室内を大合唱が占拠していた。私は耳をふさぎたかった。が、ふさいだところでこの不協和音からは逃れられないだろう。

ひとりの黒装束が空を移動し、建屋のドアを開け放つ。一気に、冬の強い風と雪が室内へ吹き込んでくる。

「答えないんだな。だったら」

恋人の凍てつく声が響いた。

「さよならだ」

すぐさま彼の姿は吹雪にかき消され、最後のセリフのみこだました。私は後を追いかけて走り出したかった、しかし依然として体は動かないのだ。

氷の地面に捕らえられ、私の手足は先から順に凍り付いていく。心臓を取り出され、今しも握り潰されるかのような、鋭い恐怖に染まりながら。

汗が全身を冷やしている。不快感に耐えられず、翠(すい)は瞼を開けた。眩しく光る天井が目に入る。朝だった。薄いガラスを透して陽光が差し込み、壁や床に色とりどりの光線を踊らせている。窓辺に多くのプリズムを並べてあるのだ。それらに光が反射し部屋中を七色に染めるのを見るのは、朝のルーティンのひとつだった。ベッドの中でまだ呆とする翠に、

「午前五時頃から先程まで、断続的にうなされているようでした」

と声がかかった。コーヒーの香りと共に、男性が部屋に入ってきたのだ。

「原因はいつもの悪夢でしょうか」

カップを翠に差し出しながら尋ねてくる。

「覚えてない」

翠は眉根を寄せながら答えた。着けているロングキャミソールは胸や背中にべったりと張り付き、さらに不快指数を増している。

コーヒーを持ってきたのは、助手のセオドアだ。色白の肌に、大きなグレイの瞳。ゆるいウェーヴを描きながら頬に落ちている髪は、陽に輝くアッシュベージュだ。長身の体躯に、しなやかな手足。まるで神話に登場する恋多き美少年のような風貌だが、しかし彼の内面は容姿のイメージとは真逆だった。つまり異様に真面目で、遊びのまるでない性格なのである。何しろ、キャミソール一枚でベッドにいる女を前にして動じる気配すら無いのだから。とはいえ彼は優秀な助手だ。翠の研究を手伝い、昼夜を問わず身近で支えてくれている。

カップを受け取ると、額と首の汗を拭いながら室内を見渡す。昨夜、就寝の直前まで読みふけり、部屋中に散乱させたはずの文献の数々が、きちんと卓上にまとめられている。普通の研究者ならここで落胆するかもしれないが、翠の場合は違う。十分な配慮がなされていると知っているからだ。助手の好意が翠の研究の邪魔をすることはない。

セオドアは完璧な助手だった。高い知能指数と実直な性質を兼ね備えている。

コーヒーを口に含めば、とたんに気持ちは現実に引き戻された。悪夢の記憶も薄れつつある。

「今日は大学に顔を出すつもり。テディ、あなたはどうする?」

尋ねればセオドアはさっと振り返り、

「お供します」

と即答した。

「日差しが強いのね」

翠のミディアムショートの黒髪は初夏の陽に照らされ、わずかに赤みを帯びて見える。

「ええ。本日の都内はUV-A、UV-Bのみならず、波長280未満の近紫外線も降り注いでいるようです。むろん若干ではありますが」

翠とセオドアは、首都Tokyoを路面電車で横断している。居住エリアであるShimokitazawaからキャンパスのあるHongoへ向かうのだ。

翠は今年の四月より、文化人類学の研究者としてUniversity of Tokyoに籍をおいていた。University of Tokyoは、ここ“エリアJ2”では最高峰の学府だ。“エリアJ3”の雄であるUniversity of Kyoto とノーベル賞の受賞数で競い続けてきた。

日本という国名がこの地球から消えて、すでに20年が経っている。しかし“国”が消滅したのではない。ただこの古き共同体の呼び名のみ変わったのだ、“Japan”と。夢の世界政府実現はどうやら遠かった。人類はいまだ国境線の向こうの人々と終わりのない諍いを続けている。

しかし統一政府の実現を見ていないとはいえ、地球規模での変革は多数あった。たとえば世界の公用語は、英語と中国語の二本柱となっている。翠はオフィシャルな場面では英語を、プライベートでは日本語を使うという日々だ。おそらくネイティブとして日本語を使うのは、翠たち世代が最後となるのだろう。

今年は西暦2051年だ。

変わったことは民間レベルでも多くあった。たとえば容姿は、今や与えられるのではなく選択する時代になっている。ゲノム編集の技術確立は人類に「肌、髪、目の色を選ぶ自由」をもたらしたのだ。とはいえ懐古趣味の一種なのか、日本ではあえて古風な日本人の容姿を選ぶ人もいぜん多い。つまり黄色い肌に黒髪、黒の瞳だ。そして翠も同様だった。

「君がAI研究の最前線から去ったのがいまだに残念だよ。全力で引き留めるべきだった、とね」

「そんなことおっしゃるのは塔ケ崎(とうがさき)教授だけです」

翠は自身の研究室で雑務ののち、恩師である塔ケ崎の研究室を訪れたのだ。

塔ケ崎は人工知能研究の世界的権威のひとりだ。華やかな研究成果に加え、常に透明度の低いサングラスを着け素顔を晒さないことでも有名な男だった。教え子である翠でさえ塔ケ崎の素顔を見たことはないのだ。ロンドンでは学部入学からマスターコース修了までの長い時間をともに過ごしたというのに。

翠とセオドアは研究室の応接スペースに通されていた。久方ぶりの塔ケ崎の研究室を見回す。ふと塔ケ崎のデスクに置かれている品に気づき、翠は視線を外せなくなった。そんな翠の様子を見て取ったのか、塔ケ崎から

「バイナル、ああつまりレコードだよ」

と声をかけてきた。

「二十世紀に全盛だった音源媒体ですね。このオッドアイの男性は?」

「デヴィッド・ボウイ、八十年ほど前に起こったグラムロックという音楽ジャンルの英雄だよ。私は実はレコードのコレクターでね。そこにあるのは、いま届いて包装を解いたばかりのものだ」

「教授に音楽の趣味があったとは存じませんでした」

「私も君と同様、学生時代を英国で過ごしただろう。しかしあの頃は良かった。先日も友人が話したんだが、僕らが過ごしたのはロンドンが最も面白かった時代だとね」

“Artificial Intelligence”、略して“AI”。このAI研究が学問の一分野として確立されたのは、1956年にジョン・マッカーシーが主催した研究集会“ダートマス会議”による。その後、第一次、第二次とAIブームは繰り返され、2010年代には第三次のブームを迎えた。当時の世界は「今度こそ人類はAIを手に入れる」と熱狂したものだ。2045年には“シンギュラリティ”、つまりAIが人類の頭脳を凌駕し、世界に大変革を起こす“技術的特異点”を迎える可能性すらあると。

しかし翠の生きる2051年。いわゆるシンギュラリティはいまだ来ていなかった。アルゴリズムで脳を表現するという野望は、人類には分不相応な夢だったのか。一方で全脳エミュレーション研究は着実に成果を上げている。

「カーツワイルの見せてくれた“夢のシンギュラリティ”は、結局のところファンタジーだったのでしょうか」

翠の言葉に、塔ケ崎は少し眉を上げた。

「答えにくい質問をしてくるね。私から言えるのは『そう異議を唱えるひとも少なくはない』という事実だけだよ」

「『2001年宇宙の旅』という映像作品を何度も観ています、あの時代に人工知能がどう受け止められていたかを知る資料のひとつとして。そしてHAL9000という存在を生み出したクリエイターの熱意に魅せられながら、同時に、彼に知能があることの根拠としていたチューリングテストのあまりに単純なことに驚きを禁じえません」

「アラン・チューリングはしかし、良い論文を書いているはずだが」

「“Computing Machinery and Intelligence”ですね、拝読しました。あの論文を読むと、チューリングテストの作成者とは思い難い現実的な視点に溢れていることに驚かされます。彼は当時としてはやはり最高峰の識者なのだろうと」

考え込むように続ける翠だったが、塔ケ崎はあくまで柔軟だ。

「ただね、現実的であることが常に正しいわけじゃない。夢を見せることによって誰かを救うこともある。むろん“誰か”とは個人のみを指すのではなく、人類の文明そのものにも当てはまるだろう」

塔ケ崎の言葉に重なるように、

「教授、お客様です」

という声がスピーカーから響いた。塔ケ崎がどこへともなく合図をすると、ドアが開いた。すぐさま、挨拶のセリフとともに男性が飛び込んでくる。

「教授、こんにちは! あっ、というか、もしかしてそこにいるのは翠? すごい、いつのまに帰国してたの」

翠が声の主へ視線を向ければ、どこかで見覚えのある姿。しばらくののち、翠の海馬は目当ての記憶を捉えた。

「ハーヴィー、よね? 久しぶり、まさかこんなところで再会するなんて」

男性は学部時代の同窓であったハーヴィー・マクシェインだ。

「僕もびっくり。でももちろん、嬉しい驚き!」

塔ケ崎を訪ねただろうに、ハーヴィーは翠に向かってマシンガントークを始めてしまう。

翠は、言ってみれば暗くて冷静なタイプだった。しかしハーヴィーは至って対照的だ。性格のみならず、容姿も言動も柔らかな楽しさに満ちている。

「エディンバラで会ってから、もう随分経つよね。5~6年ぶりかなあ」

手にした懐中時計の蓋を開けたり閉じたりしながら、ハーヴィーのお喋りは止まらない。彼は学生時代も“20世紀の英国文化”に夢中だったが、そのまま変わっていないらしい。今日も、当時を再現したスリーピース・スーツを着ている。さらには蝶ネクタイやハット、懐中時計などはハーヴィーの定番だ。古風な伊達メガネもよく似合う。

「……エディンバラのこと、ずっと忘れてたわ」

ハーヴィーのこげ茶色の髪は、スパイラルを描き額に踊っている。2051年は、色だけなく髪の質も自分で選べる時代だ。自身の美意識に合わせ、彼はあえてこの髪質を選んだのだろう。まさに時代の利便性をいかんなく活用し、ファッションの醍醐味を謳歌していると言えた。

「僕が今日この時間にここに来ることになったの、アクシデントの結果なんだよ。こんな偶然があるなんてすごい! まさにミラクルだよね」

翠に会えて嬉しいのか、今日のハーヴィーは特に饒舌だ。

「聞いてよ。こんな店を始めたんだ」

ハーヴィーが掌を開くと、空中に3Dホログラムが出現した。皮下内蔵型のデバイスからデータと光源が発されているのだ。ギャラリーの前に現れたのは一メートル四方ほどの像だが、どうやら古風な洋館の様子である。

「かっこいいでしょ? 地上二階建てに地下室付きのヨーロピアン・スタイル・ビルディング! レディ・スイ、古きグレイトブリテンの香りへようこそ!」

相変わらずの芝居がかった口調に、翠も思わずほころんでしまう。

「あなた以前から好きだったものね」

イングランドのみならずアイルランドやスコットランドの文化を愛していたハーヴィーは、学部時代をロンドンで過ごしたのち、マスターコース進学にあたりエディンバラへ渡った。その後、翠が旅行でエディンバラを訪れた際に偶然はちあわせたことがあったのだ。

翠とハーヴィーが盛り上がっていると、塔ケ崎がつぶやく。

「しかし驚きだよ。これほど便利な時代に生まれた君たちがあえてレトロを守ろうとは」

翠らの生きる時は、不可思議な時代だった。最新鋭のAI搭載のロボットやヒューマノイドと共存し、あらゆるテクノロジーの利便性を享受しながら、しかし人々は文化面においては過去の幻影を強く求めていたのだ。

その異様について、翠やハーヴィーら若い世代が認識することはなかった。そのように生まれ、そのような時代の中に育ったのだから、あくまで自然と感じていた。しかし塔ケ崎ら21世紀初頭を知る者にとっては、ただただ不可思議な現象と見えた。進みすぎた文明の揺り戻し、と思われもしたものだ。

名残惜し気に話を切り上げ、同窓生ふたりは塔ケ崎への要件を済ませる。

翠とセオドア、ハーヴィーの三人が帰り支度を始めると、

「翠君」

塔ケ崎の声がかかった。

「気になったものがあれば持っていきたまえ。そういえばこれ、じっくり見ていたね」

差し出されたレコードジャケットには“Blur”と表記があった。

「僕の店、Omotesandoなんだ」

話の流れから当然のように、翠とセオドアはハーヴィーの店へ寄り道することになったのだ。

「一等地に建てたのね」

ハーヴィーのアンティークショップは、さすがにOmotesandoのメインストリートにはないものの、一本脇に入っただけという良いエリアにあった。

総レンガ造りの二階建ての洋館だった。白い漆喰塗りの壁に、木製の扉とフランス窓の淡い水色が映えている。さらには建屋をヴェランダがぐるりと囲んでいることを、翠が誉める。

「ヴェランダ・コロニアル様式っていうやつ。僕、すごいこだわったんだよねえ」

得意げにハーヴィーは応えると、正面の両開きのドアから中へ入るようゲストふたりに促す。

玄関ホールを通り抜ければ、やはりクラシカルな造りの展示室が広がっていた。壁一面に棚が作りつけられており、鉱石や骨董品のアクセサリ等が所狭しと並ぶ。一角には薬品の瓶がいっぱいに詰まった棚もある。

翠が陳列棚にばかり目を向けていると、

「翠」

セオドアが指で上を示す。

「天井に、おそらくあなたの好きなものがありますよ」

セオドアのアドバイスに、翠は天井を見上げた。すると、なんと天井には数多くのシャンデリアの間に、全長2メートル程度の翼竜の化石が吊り下げられているのだ。

「これは、プテラノドン! すごいわ、完品は世界でも非常に数が少ないはずよ。いえ、もしかしたらこれが世界初の完全な化石……?」

「ああ、待って待って、レディ・スイ! 一階はあくまでアピタイザーだよ。僕は翠に、二階をこそ見せたかったんだから」

ハーヴィーは翠の手をさっと握った。手を取られたままに翠が階段を上ると、一階よりもさらに大きなホールが広がっている。しかし翠にとって、広さは問題ではなかった。並んでいる品々を認識し、内心酷く驚いたのだ。二階の展示ホールには、機械人形、つまりオートマタが無数に並んでいたからである。

翠はホール全体に目を配った。機械人形の数は数十、もしかしたら百を超えているだろうか? オートマタの大群の出現は、翠を傍目にも分かるほど動揺させてしまうかもしれない。と、そのとき、翠はとある機械の存在に気づいたのだ。急ぎ歩み寄る。

「ハーヴィー、こんな旧い機材も置いているのね」

「ああ、アナログターンテーブル。教授もコレクターのようだったけど、僕も英国のレコードなら手を出すに決まってるでしょ。というわけで、うちの店にも少しだけど置いてあるよ。聴いてみたいなら使い方を……」

説明しようとしたハーヴィーをすり抜け、翠は機材に触れた。

「今日は妙なほど音楽に縁があるわ」

さきほど塔ケ崎から受け取ったレコード群をバッグから取り出し、卓上に並べる。ジャケットのデザインは実に多種多様だ。共通するのは古い紙の手触りと、微かに立ち昇る旧い時代の香り。翠はLP盤をひとつ選ぶと、慣れた様子でプラッターに乗せた。

「昔の恋人が教えてくれたの。もう恋愛は二度とできないと思うほど、鮮烈だった人」

翠はゆっくりと、針先を盤に落とした。レコードプレイヤーからはノイズが響く。断続的で、どこか温かみのあるノイズ。そのノイズの小川に溶けだすように、ギターやベース、ドラムの音が流れ始めた。

Blur,“Tender”

翠がレコードジャケットのタイトルを読み上げると、三人は黙って音色に耳を傾ける。しばらくするとギターの響きのうちに、男性ヴォーカルの声が現れた。ジャケットの情報から鑑みるに、イギリス人のようだ。

男性ヴォーカルによるヴァースとコーラスが一巡りする。歌は、どうやら最愛の恋人との別れを題材にしているらしい。と、ハーヴィーが口火を切った。

「翠。その大好きだった恋人って、いつかエディンバラで一緒にいた彼で合ってる?」

翠は驚いて目を見開く。

「あなたはリアルの彼に会ったことのある、数少ない証人なのね」

「たしか音楽家だって紹介された気がするけど」

「正しくは“音楽家の一種”よ」

語りつつ、翠は目を伏せてしまう。

「……彼、DJだったの」

「DJ! へえ、あのアナログ音源をかけてパーティを盛り上げるってやつか」

VRも当たり前である2051年。しかし人々はいまだアナログの芸術に魅せられていた。言うなれば“データである音楽”は、“原則として失敗がない”のだ。それに対してアナログの演奏や音源は、先の予想がつかない、いつ失敗するかも分からないという可能性を持っている。すべてが無欠を目指せる時代であるからこそ、人々はアナログの不安定性に魅せられるのかもしれない。

機材を撫でながら、翠はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「……ハーヴィーはバルドって分かるかしら」

尋ねられ、ハーヴィーは大きく肯いた。

「もとの綴りは“bard”、日本語では一般的に“吟遊詩人”て訳すやつでしょ。ケルト神話やフェアリーテイルでよく見るなあ」

「ひとりのバルドが国の運命を変えてしまったの、音楽の力によって。学問に重きを置いていた国民に、学問でも政治でも軍事でもなく“歌”を教えたの。それまで『何が正しいのか』『何が良くて何が悪いのか』というマターに終始していた国が、『何が楽しいか』というフレーズであふれた。そして歓喜に明け暮れる人々を残し、バルドだけが軽やかに虹の橋を渡っていく。虹を超えて、彼はまたどこか別の楽園へ遊びに行くのかもしれないわ」

「そう、なんだか、ワーズワスの詩を思い起こさせる!」

勢いよくハーヴィーは立ち上がった。傍にあったシルクハットをさっと被ると、おもむろに口を開く。

My heart leaps up when I behold

A rainbow in the sky :

So was it when my life began,

So is it now I am a man,

So be it when I shall grow old

   Or let me die!

The Child is father of the Man :

And I could wish my days to be

Bound each to each by natural piety.

暗唱し終えると、翠に向かってニッと笑顔を見せた。

「氏の名作、『虹』だよ」

「あなたは本当に古い文化に詳しい」

素直に褒めた翠に、ハーヴィーはハットを脱いで大仰に礼をして見せる。

「まあね、それにこの詩には卓見が詰まってるから。“子供は大人の父”なんて言い切れちゃうの、すごいカッコイイでしょ」

「子供の頃の気持ちを失わないこと。その価値を詠っているのね」

ウイリアム・ワーズワスは、1790年代から1840年代までを活躍した詩人だ。英国の湖水地方を愛し、自然の優美を高らかに謳い上げることで詩人としての地位を確立した。

「ここでワーズワスの名前が出てくるなんて思わなかったけれど。彼はまさにその詩のとおりのような人だったわ」

翠の恋人は、もともと大学の後輩だった。翠が彼の入学にともなう指導をおこなった際、二言三言ではあるが私的な会話をしたことがあった。しかしその後まもなく、彼は学校にほとんど顔を出さなくなってしまった。翠は彼の噂を人づてに聞くのみだった。自身の楽曲の発表とともにDJとしても活躍し、世界規模の名声を獲得し始めていると。

研究者として不自由な日々を送る女性と、ミュージシャンとして自由に活躍する男性。そんな二人が恋に落ちたのは、彼が演奏をしている箱へ翠が出向いた時だった。指導教官だった塔ケ崎と研究者仲間に連れられ、初めて会員制のクラブへ遊びにいったのだ。

堅物として生きてきた翠にとって、クラブは未知の世界だった。派手な衣服に身を包む人々、めぐる光と耳を刺す音。無機質で快適なキャンパスとはまったく異なる、原始の熱が充満していた。

彼のプレイはおそらく天才的だったろう。しかし知識不足の翠にはそのテクニックの真価は分からず、さらには会場の熱気などどうでもよかった。ターンテーブルの前に現れた彼がすぐさまフロアに翠を見つけ、その手指が一瞬間止まったこと、肌に赤みが差したこと。それらの出来事に翠の心は震え、他の何も目に入らなくなってしまったのだ。

「鮮烈すぎて、私にとっては忘れられない夜になった。彼は覚えてもいないと思うけど」

光と音の景色を反芻しながら、翠は続ける。

「バルドは最後まで本心を見せないの。彼の歌は多くの人の運命を変えたのに、“彼そのもの”は誰にも変えられなかった。そして結局……ひとりで行ってしまうのよ」

語るうちに声が震えてしまったことに気づき、あわてたように翠は口をつぐんだ。ハーヴィーも黙った。流れていたレコードもちょうど止まり、室内に静寂が訪れる。

場の空気を変えようとしたのか、セオドアがオートマタのひとつに歩み寄った。ピエロの扮装をした自動人形だった。白塗りの肌に、黒い涙のメイク。衣装は全体が黒と赤の斜め市松、襟のみ赤と黄色だ。やはり赤と黄色の斜め市松の帽子には、つばの先に一周ぐるりと鈴が縫い付けられている。一点、ピエロとしては珍しいことに、両の手にそれぞれ大ぶりのダガーナイフを握っているのだ。

「これはいつ頃のものでしょうか」

「うーん、おそらく17世紀だね。ちょっと待って、データを見てみよう」

ハーヴィーはパネルを操作する。

「ウェブと脳をダイレクトに繋いじゃえば楽なのになあ。まだ認可が下りないんだよね、めんどくさくてたまらないよ」

ハーヴィーがぼやく中、セオドアは件のオートマタに手を伸ばす。

機械人形にも当然ながら顔がある。しかし帽子のつばの陰になり、表情は見えない。興味を引かれたのか、セオドアはぐいとそこを覗き込んだ。

と、そのとき。無数の鈴が奏でる涼やかな音色とともに、鈍い音が響いた。同時に何かが周囲に跳ね飛んだのだ。

「うわっ!」

声とともにのけぞったハーヴィーの足元に、セオドアの手首が転がってきた。

 

第二回へ続く

Author:さかき漣

Photo by Cristi Goia on Unsplash

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